2004年

ーーー8/3ーーー 樋口紀美子ピアノリサイタル  

 当地でピアノリサイタルが行なわれた。会場は、個人が所有している「セミナーハウス」。コンサートホールではないが、100人規模までなら聴衆を入れられる。ピアノは名器の名が高いベーゼンドルファー。森の中の静かな環境で、サロン風のアットホームな音楽会となった。

 演奏家は樋口紀美子さん。30年間にわたってドイツに住み、演奏活動と子供たちの指導を行なってきた。向こうでの評判は高いのだが、日本では名前を知られるチャンスも無く現在に至っている。

 紀美子さんの母上は私の母と学生時代からの友人で、おつき合いは60年に及ぶ。私も小さい頃は母のクラス会に連れて行かれ、紀美子さんやそのお兄様と遊んだ記憶がある。ちなみにお兄様は音楽学者をされていて、日本を代表するバッハの研究者の一人である。

 コンサートは素晴らしかった。演奏家のレベルが高いのはもちろんだが、ピアノが良い状態であることと、聴衆の質が高かったことも影響を与えたらしい。全ての事が上手く回って、最高の演奏会となった、と演奏家は後で語った。

 何よりも、演奏のひたむきさと純粋さに胸を打たれた。聴衆を全く意識していないかのような、完全に没頭しきった演奏である。しかしその没頭は、自分本位、独りよがりのものではなく、強い電磁波を発散して周囲の者を金縛りにする。真面目に、誠実に、という姿勢とも違う。言ってみれば、求道者の姿である。人間がここまで一つの事に入り込めるのか、人間がここまで純粋な形になれるのか。芸術とはこれほどまでに人をとらえて離さないものなのか。これはもう、音楽表現の枠を超えた、悠久深遠な世界の表出であると思われた。変な言い方ではあるが、この感動はジャンルによらないものであるようにも感じられた。

 樋口さんは、海外では活躍されているが、国内では無名に等しい。それにひきかえ、国内では有名とされるピアニストながら、その演奏会にははなはだ失望させられる音楽家もいる。

私は今回の演奏に接し、次のような詩を思い出した。


「或る石に刻むとて」  尾崎喜八

 流転の世界、
 必滅の人生に、
 成敗はともあれ、
 人が傾けて悔いることなき、
 その純粋な愛と意欲の美しさ!



ーーー8/10ーーー 道路マップ


 今まで行ったことが無い地域に車で出かける用事ができたので、新しく道路地図を購入した。地図帳になった10万分の1の道路マップである。

 新たに手に入れた地図を見るというのは、楽しいものである。まず自宅周辺のページを開け、それから次第に思い出のある地域、名前を覚えている地域などへと視野が広がっていく。辞書と同じで、ある事を調べたら、その関連で別のページへ飛んでいく。そんなことを繰り返すのが、また面白い。

 日本の場合、地図帳のどのページを開けても道路があり、集落があり、町がある。まんべんなく人が住んでいるのである。アラスカの地形図などは、人の生活の痕跡を見つける方が難しいくらいであるから、大きな違いである。無作為に開いたページに必ず、人々が住んで暮らしている形跡を見ることは、当たり前のようでありながら、不思議な気持ちにもさせられる。

 今自分が住んでいる場所から、車で5分も行けば、もう知っている人など誰も居ない、未知の世界である。でもそのことは、特に不思議な気はしない。しかし、地図のページに発見する、何10キロも何100キロも離れた場所の人々の生活の場は、特別な思いを起こさせる。背が立たなければ同じだと言っても、波打ち際と大洋の沖合いでは、恐怖の感覚が全く違うのに似ている。

 あるページを開いたら、山間部であった。谷間を流れる川に沿って集落があった。なんでこんな所に人が住んでいるのだろうと、その方々には失礼だが、思ってしまう。どんな生活をしているのだろう、お年寄りは多いのかな、子供たちは元気に遊んでいるのかな、などと、勝手な想像を巡らす。そう、自分の知らない場所に、数限りない生活が、無数とも言うべき人生が、粛々と営まれているのだ。

 将来私に孫ができたとして、その孫の夫や妻の両親も、この私と同じ現在の時間をどこかで過ごしている。そんな事は当たり前だが、その連想には一種不思議な重さがある。

 こうしてみると、一冊の道路マップが語るものは、結構多い。



ーーー8/17ーーー 樽の板

 ウイスキー樽ランプの材料となる樽廃材を入手するために、サントリーの白州工場へ出かけた。この話を取り継いでくれたチーフブレンダーM氏のご指示によって、材は既に工場の作業員によって選別されていた。その1000枚近い板の中から、さらに私の希望するスペックに合うものを選んだ。作業場には、ウイスキーの甘い香りが漂っていた。

 板の巾や、ダボ穴の大きさ、その開けられている位置にばらつきがあり、驚かされた。工場の人の話では、外国製の樽だからばらつきは当然のことだそうである。自社で作る樽の場合でも、多少の寸法違いは避けられないという。ちなみに今回の樽板は、米国のバーボン樽を輸入してウイスキー貯蔵用に使い、長い年月を経て用済みとなったので、解体したものとのことだった。

 結局130枚ほどを軽トラックに積んで、帰路に就いた。

 寸法、形状にばらつきがあるのは、それを使う側としては有り難く無い。しかし、木工品とは基本的にこういうものなのだろう。これらの板はまた、乾燥させる間に変形する。今は丸いダボ穴が、縮んで楕円形となる。板全体も捩じれが出たりする。いずれも私にとっては好ましく無いことである。しかしこれも、木工に係わる者としては、宿命として受け入れざるを得ない事であろう。

 同じものは一つとして無いこの板の山を、樽ランプという製品に仕立て上げるには、まだまだ工夫が要りそうである。

 一つの品物を製品化し、ある程度の数量を安定的に生産しようとするならば、1個や2個を作った時点とは違った難しさが現れる。そういうことを改めて認識させられた。



ーーー8/24ーーー つげ義春の漫画

 大学の夏休みで帰省している息子の勧めで、つげ義春の漫画を読んだ。この作者の名前を、私は全く知らなかったが、国内の一部に熱烈なファンがおり、海外でも高い評価を得ているとのことだった。

 我が家にも、多少の漫画本、コミックの類いはある。家内や子供の趣味で揃えたものが多い。私自身はあまりこだわりもなく、買いもしない。しかし、読んでみると、漫画もけっこう引き付けるものがある。そんなことをある席で述べたら、「漫画は立派な文化ですよ。私の郷里では、自宅の一室を図書室のようにして、漫画を収集している家が多いです」と、北海道出身の人が応えた。

 つげ義春に戻るが、これは凄い作家だと感じた。荒唐無稽なものもあり、また、リアリズムのものもある。自伝的な作品もあれば、時代ものもある。それら全てが、なんとも言えないほど静かである。静かで穏やかであるが、妙に生々しく、現実感がある。そして、わざとらしさが無い。漫画にわざとらしさが無いというのも変な話だが、別の言い方をすれば、表現がとても自然である。問わず語りの身の上話を、退屈しのぎに聞いているような感じである。それでもいつか話に引き込まれ、思わず頷いていたりする。

 なんとなく、我が身に重なるところがある。そう感じたのが、心を惹かれた理由かも知れない。



ーーー8/31ーーー 思わない・・・

「思わない 考えないし 悩まない 顧みないし 望みもしない」

以前どこかでこんな短歌を目にしたことがある。

人生を達観しているような意味合いを感じ、どことなく憧れを感じたものであった。そして、わざわざ紙片に書いて、壁に貼ったりした。

それが最近になって、自分自身の生活スタイルそのもののように感じられることがあり、ちょっと怖くなる。

歳をとったということなのか、あるいはこの夏の長過ぎた暑さがもたらした、疲労と倦怠のせいなのか・・・




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